[コラム]世界一周船の旅<3>(北1地区 久保田尚子)
オーシャンドリーム号はアメリカ東海岸を経て中南米に入りました。中南米に関しては、私たちにあまり情報が伝わって来ないためか驚きの連続でした。ニューヨークを出て初めに寄港したのはハバナです。アメリカへ立ち寄ってからキューバに入国するというので入国審査は特に厳しく、すごく時間がかかりました。ハバナ港はボロボロの港で、やっぱり厳しい国だなというのが第一印象でした。ハバナ港周辺は世界遺産に登録された要塞ですから大砲やら軍艦といった、ぶっそうなものがあちこちにあります。もっとも、大砲は実際使っているというより観光用の置物という感じでした。
町に入ると1950年代にタイムスリップしたようです。年代物のアメ車が走りまわっていて、時折、超ピカピカのアメ車も走っています。これは全てタクシーです。
町にはスペインの植民地時代の建物がいろいろあり、それが年を経て風格を増しどれも絵になる風景です。広場に面した立派な建物と一歩裏道に入った庶民の住むアパートとの対比は衝撃的でした。
国民の多くが自身のルーツの中にスペインを探し求めて、スペインのビザを手にしようとしていると聞きました。それがあると出国しやすいからです。国内には魅力的な品物が少ないのかメキシコなどに買い物に出かける人が多いそうです。
私たちの船はカリブ海を南下してパナマのクリストバルに入港しました。パナマ共和国のチャグレス川流域にはエンベラ族という先住民が暮らしています。その中の一つの村を訪問しました。10年ほど前コロンビアとの国境近くに住んでいた彼らは森の縮小にともない、政府によって保護されたこの居住地域に移りました。
彼らは、主に狩猟と観光業で生計をたてています。この村には学校もあり、本来のエンベラ族の生活とはだいぶ変わってきているようです。伝統的な生活と現代人の生活を一応共存させているように見えますが、苦渋の選択でしょう。
パナマ運河はパナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋とカリブ海を結ぶ全長80km、最小幅91m、最大幅200mの閘門式運河です。パナマ地峡をせき止めて出来た人工湖ガツン湖が海抜26mの所にあるため上り、下りそれぞれ3段階の閘門を通過しなくてはなりません。1つの閘門を抜けるごとに3.5m位づつ登っていきます。閘門が閉じられ水位が上昇していくとまさにエレベーターに乗っているように視線の位置が高くなり景色が変わっていくのが印象的でした。
閘門内では船は両脇から日本製の専用電気機関車で牽引されます。パナマ運河を通過できる船のサイズをパナマックスといいます。2016年に拡張工事が行われ、今では旅客船は全て通過できますがタンカーや鉱石運搬船等は対象外でコンテナ船も最大級のものは通過できません。
私たちは8時間くらいかかってこのパナマ運河を通過し、ついに太平洋に出ました。これからペルーのカヤオをめざし船は南下します。しばらくして私はある不思議なことに気づきました。パナマ運河を出たところは北緯8度くらいですから今頃は赤道直下に近いはずです。それなのにデッキに出ると何だか肌寒いのです。
実は南米大陸の西側には南極から来るフンボルト海流が流れており、このため他の同緯度の場所と比べて7~8℃も気温が低くなっているのです。赤道直下のガラパゴスが温暖な気候になっているのもこの寒流のためなのです。海流によってこんなにも気温が変わるというのは本当にびっくりしました。
カヤオ港は思っていたより大きな港でした。大型の外国船が沢山停泊しており、ドイツ車と思われる沢山の中古車が陸揚げされていました。港の周辺の治安はあまり良くないようで、私たちが着いた時、港の外への自由行動は制限されていました。バスガイドさんの話によると、この国で一番人気のある職業は警察官だそうです。お給料がいいのでしょう。
私たちは港からバスでリマ空港へ行き、飛行機に乗りついでアンデス山脈を越えクスコへ向かいました。海抜0mから一気に3400mまで来たのでインカの遺跡を散策するときは高山病にかかりふらふらでした。
インカの遺跡は石組みの精巧さがきわだっています。近くでみるといろいろおもしろい石組みを見つけることができます。
16~17世紀のころ、この地を征服したスペイン人はこのインカ時代の宮殿の上に大聖堂をたてたり、遺跡の石を運び出して教会の建設を行ったのです。
インカの聖なる谷を渡り夕暮れにウルバンバのホテルに到着しました。アンデスの山の中にこんなに立派なホテルがあるということにとてもビックリしました。南米ではどこでも果物や野菜がおいしく種類も豊富です。私たちが普段食べている野菜の多くがアンデス原産というのもうなずけることです。
翌日はウルバンバ川に沿って走る鉄道とバスを乗りついでマチュピチュに向かいました。ウルバンバ川を挟む両側はものすごい急斜面でアンデスが今まさに活動している造山帯であることがみてとれました。
鉄道の終点マチュピチュ駅から入り口まではシャトルバスに乗ります。インカ道を歩いてマチュピチュを目指すなら今でも大変でしょうが、大方の観光客は入り口までこのシャトルバスに乗るのでわりと楽に到着できます。ゴツゴツとした岩の階段を30分ほど登るといきなり目の前に素晴らしいマチュピチュ遺跡の全景が姿を現しました。
霧のかかった5000m級の峰々を背景に、この整然たるインカの遺跡は神々しく輝いていました。なぜここに?どうやって?マチュピチュをめぐる多くの疑問はまだ十分には解明されていません。上空からこの遺跡全体を見るとコンドルの形をしているそうです。このビューポイントから山を下り実際に遺跡の中を歩きました。
マチュピチュの周辺には農業試験場と思われるすりばち型をした遺跡などもあります。栽培作物の研究が盛んだったようです。アンデスに野菜の種類が豊富なのはこのころからの研究の成果なのでしょうか。
2泊3日のマチュピチュ観光を終え、私たちは再びオーシャンドリーム号にもどりました。カヤオを出港して船は北上します。6日後グアテマラのプエルトケツアルに到着。この時近くのフエゴ火山が爆発しました。ピースボートでは急遽支援物資を届けました。
かってマヤ文明の中心地のひとつとして栄えたグアテマラでは古都アンティグアを訪れました。18世紀初めに建てられたカプチナス修道院の中庭では、数日後に迫ったある聖人のお祭りに出演する近隣のミスやミスターがカーニバルの衣装をつけてリハーサルをしていました。
マヤの女性たちは伝統的なカラフルな織物を織ります。フランシスコマロキン大学の中にあるインチェル博物館には沢山の織物が展示されていました。
グアテマラでは人権活動家で国会議員もしている女性の話を聞くことができました。マヤの独特な暦や世界観、グアテマラの内戦で傷ついた女性や先住民の話はとても興味深いものでした。
プエルトケッツァルを出港し船はメキシコのマンサニージョに向かいます。マンサニージョはピースボートが何度も訪れている港で地元の方たちが盛大な歓迎式典をしてくれました。
メキシコでは豪華なホテルのプールでのんびり1日を過ごしたので、素顔のメキシコにはあわずじまいでした。
マンサニージョを出港すると最終寄港地のハワイのホノルルをめざします。ホノルルでは私たちはビショップ博物館を訪れました。
ハワイの先住民の歴史や文化、生活を展示してあるこの博物館でおもしろいものをみつけました。日本の女の子だったら誰でも知っている、一人あやとりのひとつ、三段はしごをハワイの先住民がやっていたのです。とてもびっくりしました。後で調べてみたら、あやとりは全世界にあるようで、各地で自然発生したものらしいです。それにしても何か私達とのつながりがあるのか?と考えてしまいました。博物館に併設されたレストランでハワイの伝統食である、タロイモのポイなどを味わうことができました。翌日はオアフ島を一周しました。いよいよ、私たちの船旅も終わります。長い間お付きあい下さってありがとうございました。
「世界一周船の旅」を終えて
平均の船の速度は16ノット(30km/h)くらいでしょうか。確かな数字はわかりませんが、毎日船長が定刻に現在位置、速度、気象観測データ等をアナウンスしていました。船でのゆっくりした旅は航空機での旅では見落としてしまうようなことを、いろいろ考える時間を与えてくれました。
世界一周といっても訪れたのはたった24寄港地です。船ならではのスエズ運河、パナマ運河を航行できたのは良い思い出になりました。地球を回って帰ってきて感じたことは、地球は、そんなにべらぼうには大きくないということです。
人間の営みによってどれだけ美しい自然が汚され、破壊されているかも実感しました。モルディブの海も汚い所の写真は載せませんでしたが、思った以上に汚れていました。人類は、もう地球が限界にきていることに気が付くべきです。ここ数百年で汚してしまった地球を何とか昔のきれいな地球に取り戻したいです。(おわり)
⇒ 世界一周船の旅<1>へ https://tankenkobo.com/wp/2019/05/21/worldtravel/