[コラム]書籍「遊びが学びに欠かせないわけ〜自立した学び手を育てる」のご紹介3(代表理事 安田光一)

学びの場は どのような姿であるべきか? そもそも、現在の学校制度はどのようにして 何のために作られ、誰のためにあるのか? 強制された教育制度の抱える問題点について ピーター・グレイは鋭く追及しています。 この本の紹介を 更に続けます。(安田)

第3章のタイトルは 学校教育の歴史―― 誰の必要から、いまのような学校はできたのか? です。 著者は書いています。「私たちの周りにある学校は、科学と熟考の結果ではなく、単なる歴史の結果です」 まず第一の歴史的な変化は、農業の登場です。数十万年の間、人間は狩猟採集民として暮らしてきましたが、約1万年前に作物栽培が出現しやがて定着しました。

農業が変えた子育ての目標

狩猟採集民の生活は知識集約的で、技術集約的でしたが、労働集約的ではありませんでした。したがって、狩りと採集の仕事はワクワクして楽しいものでした。文化人類学者は、狩猟採集民は我々のように仕事と遊びを分けることはないと報告しています。 農業が、徐々にこれらをすべて変えました。農業は私有地、階級的格差、そして狩猟採集民の社会に広がっていた「平等」とは全く違った条件を生み出しました。農業は放浪の民として暮らすのではなく、自分達が育てている作物の近くに定住することをを可能にしましたが、より長い時間を労働に費やさなければならないというコストを伴っていました。子どもたちの生活は、徐々に自分自身の興味関心を自由に追求することから、家族の手助けとなる労働をする時間に移行しました。

農業は、人々の暮らしにたくさんの改善(安定的な食糧供給、定住、安全な住居)をもたらしてくれましたが、他方では「自由」「平等」「共有」「遊び」などの価値を減少させました。農業社会がもたらした「価値観」の変化を要約すると四つになります。①長時間の労働集約的な労働に高い価値、②遊びの価値を否定、③子供に対する厳しいしつけ(時に体罰を伴う)、④自然を人間の使用人(管理する対象)とみなす。

子育てに覆いかぶさる封建主義と産業のさらなる影響ーーー「服従」

農業が社会の基本的な生産様式になった時、ヨーロッパでは奴隷制度から封建制度の時代へ、更に産業資本主義の時代へと展開しました。その間、社会の基本的な特性は「服従」でした。家族の父親への「服従」、荘園の帰属への「服従」、王国の王への「服従」、そして天国の神への服従……このような状況で、教育は「服従訓練」と同義となりました。

学校の誕生ーーー初期の神学校の洗脳と服従訓練 カトリック教会と学びのトップダウン

ヨーロッパでは中世を通じて、ローマ・カトリック教会が知識を独占し、人々の生活・文化・教育をも独占し支配し続けました。教会が大学を設立をしても、それは自由な探究ではなく、教義を作り出しコントロールするのが目的でした。

プロテスタント主義の台頭と義務教育の起源

宗教改革によって生まれたプロテスタント主義は、産業資本主義の発展を支えました。 カトリックよりも、プロテスタントの方が「普通教育」を促進しました。ルターなど宗教改革のリーダーたちは、地獄に落ちることから魂を守るために、キリスト教の務めとして普通教育を促進したのです。 当初のプロテスタントの学校での主要な指導方法は丸暗記でした。目標は、知的好奇心ではなく、洗脳でした。学校はプロテスタントの労働倫理を強化するようにデザインされていました。 教室では遊びは学びの敵でした。遊びに対する学校当局の支配的な考え方は、ジョン・ウェスレーが書いた規則に反映されています。「私たちは遊びの日を持っていません。従って学校でも遊びは一切認めません。子どもの時に遊んで過す者は大人になっても遊ぶのです」

義務教育制度ーーーどのようにして学校は国家に奉仕するようになったのか

19 世紀初めまでにヨーロッパの教会は政治権力から押し出され、代わって国家が子どもたちの教育をする役割を引き継ぎました。国家が運営する学校の目的は何だったのでしょうか? 政府や産業界のリーダーたちの教育に関する最大の関心事は、人々が何を読み何を考えどう行動するかをコントロールすることでした。彼らはもし国家が学校を管理し、子どもたちが学校に通うことを法律で義務化したならば、すべての世代の国民を理想的な愛国者と労働者に育て上げることができると考えたのです。 ドイツが国家の運営する学校制度のリーダーになりましたが、他の国々も後に続きました。学校教育は国家の役割と見られ、軍隊と同じように国の安全保障にとって欠かせないものと捉えられました。 イギリスでは義務教育導入に反対する勢力のため、欧米主要国の中では最も遅れました。アメリカではマサチューセッツ州が公教育を義務付けた最初の州で、最後になったのはミシシッピー州でした。 米国における義務教育の精神はエドワード・ロスの言葉に良く表れています。 公立学校の役割は「各家庭から、まだ成形しやすい小さな人間生地を集めて、パン生地を捏ね上げるように社会的な板(=学校)で形作ることである」

高まり続ける学校のパワーと画一化

こうして、いったん国家が運営する義務教育制度が定着すると、教育内容と方法の両面で次第に画一化の方向に向かいました。 子どもたちは年齢によって、クラス分けされ、工場の組み立てラインのように、学年から学年へと手渡されていきます。各教師の役割は、事前に計画されたスケジュールに従って、公式に認定された知識を、製品である子どもたちに徐々に付け足していくことです。そして次の生産工程に渡す前に製品の出来をテストします。 そして、次第に一日の授業時間、年間の登校日、そして教育期間も、宿題も増えていきました。 <現実の学校では、このような傾向を抑えるため 様々な努力がなされていることも事実です>

学校教育制度が抱えている大きな悩みがあります。 【不登校】と【いじめ】です。いじめの結果、不登校になる子どももいますが、いじめがすべての不登校の原因ではありません。著者は自分自身の子どもが「不登校」になったことがキッカケで、教育制度の歴史と、教育のあるべき姿について、幅広く研究を深めていきました。

著者ピーター・グレイは、学校制度の歴史を以上のように概観した上で、この歴史的な学校制度の抱える問題点を第4章で厳しく問いかけます。 (現実の学校がすべてこのようなものだというのではありません。あくまで制度が内包している問題点です)『あえて言わせてもらうと、子どもたちにとって学校は「監獄」だから、嫌いなのです。』と、ピーター・グレイは言います。 著者は強制された教育制度の7つの罪を挙げています。

罪1 正当な理由も手続きもなく、自由を否定している
子どもの年齢を基準に、子どもを学校という施設に、事実上監禁しています。

罪2 責任能力と自主性を発達させる妨げになっている
子どもたちの「主体性」と「自己責任」を育成するのに 必要な時間と機会を奪っています。

罪3 学びの内発的動機づけを軽視している
「学び」を「勉強」ないし「苦役」に転換している。子どもたちは熱烈な向学心をもって誕生します、彼らは、生まれつき好奇心旺盛で、遊び好きです。ところが学校制度によってそれを止めてしまうのです。

罪4 恥ずかしさ、思い上がり、皮肉、不正行為を助長する形で生徒を評価する
最初に学校で強制のために用いられた最も一般的な道具 はむちでした、いま、むちが使われることはありませんが体罰はまだ20の州で認められています。それに代わって絶え間ないテスト、成績、ランク付けで勉強するように仕向けています。これが不正行為を助長しています。

罪5 協力といじめの衝突
私たちは、生まれつき協力するようにできている「社会 的な動物」です。 ところが、学校での年齢による「分離」と「競争」を煽る空気、および、子どもたちが学校の運営に全く関われない状態が「いじめ」を生み出す排他的な小集団を作り出しています。

罪6 クリティカル・シンキングの禁止
クリティカル・シンキングは、教育の大切な目標の一つであるのに 実際には求められず、教師の意に沿う「正解」を求める状況を強めることになっています。

罪7 スキルと知識の多様性の減少
現実の世界では、「個性の多様性」と「知識の多様性」は 大切にされます。しかし学校ではカリキュラムを画一的に押し付けることで多様性を妨げています。(次号へつづく)

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